大学時代、僕は民俗資料を集めるため、地元の小さな村にフィールドワークに出かけた。
資料館の館長に勧められたのが「影見村(かげみむら)」という場所だった。
「正式な地図には載ってないけど、旧村境の奥に小さく集落が残っている」
「ただし、“三日以内に帰ってきなさい”。それだけは守って」
その言葉の意味を、当時の僕は深く考えなかった。
影見村は、山をいくつも越えた先の林道の奥にあった。
家は5軒ほど。すべて木造で、外見は古びているがどこか丁寧に手入れされていた。
「お客さんは久しぶりですなあ」
最初に声をかけてきたのは、70代くらいの男性。
その目が、妙に焦点が合っていないことが気になった。
「夕方以降は、外に出歩かんようにしてくださいよ」
とだけ言い残して去っていった。
村には電話も電波もなかった。
唯一の娯楽は、持参したノートと録音機器。
初日はのんびりと過ごし、2日目、村の中央にある石碑に目が留まった。
“影見大明神”と刻まれている。
その脇に、竹で編まれた“面”が供えられていた。
白塗りの、表情のない仮面。
額には赤い墨で「影」と一文字だけ。
地元の老婆が言った。
「昔ねぇ、“影見さま”を怒らせると、人が消えるんよ。姿も、声も、記憶も……全部。」
その夜、外に出てはいけないと言われていたのに、ふとトイレに行きたくなり、宿を抜け出してしまった。
月明かりもなく、林がざわついていた。
ふと、どこかから「パシ……パシ……」という音が聞こえた。
乾いた、手を叩くような音。
その先に、仮面をつけた誰かが立っていた。
白い面に“影”と書かれたまま、ぴくりとも動かずこちらを見ている。
僕は足がすくんでその場に立ちすくんだ。
数秒後、その仮面の向こうから、誰かの“顔”が浮かび上がってきた。
……自分の顔だった。
翌朝、村人たちが誰も僕のことを知らなかった。
宿の老婆は「何してるの、あんた誰?」と怯え、昨日話した村人も「ここに来た客なんていない」と言った。
僕は急いで村を出た。
資料館に戻ると、館長が青ざめていた。
「君……4日間も戻らなかったから、もう……」
──おかしい。
僕の感覚では、まだ“2泊3日”の3日目だった。
その後、録音機を確認すると、自分の声が何度もこう言っていた。
「かげがいる。おれをまねてる。おれになってる」
「おれ、おれは、だれだ」
ぼくはだれなんだろう?